知る
「考え方を父に、紙漉きを母に学びました」と語る、四代目岩野平三郎を目指す岩野麻貴子さん。岩野平三郎製紙所は越前和紙の中心地、越前市五箇地区にある。その中で育ち、その名を襲名すべく、育てられてきた。手漉き和紙の工房としては日本でも最大規模、父である先代は最盛期60名の従業員を束ねていた。
「あとを継ぐ」。それは技だけでなく経営をも意味する。成長するにつれその言葉は重みを増し、逃れるように外で働いた。だが和紙から距離を置いたことで「この大切な伝統を失くしてはいけない」と気づかされたという。大学を卒業して3年後、岩野平三郎製紙所に入社。職人として一つの技を磨きたかった麻貴子さんに先代が与えた課題は、和紙作りの工程を全てこなせるようになること。「あの頃はもどかしかったですね。今は、経営者としても和紙作りの全体把握が必要と理解できますが」と笑う。
同社を代表する「雲肌麻紙(くもはだまし)」は、初代岩野平三郎氏が一度は廃れた麻紙を帝国大学の内藤湖南氏にすすめられ、研究の末、1926年(昭和元年)に復興させた。当時、絵具を塗り重ね表現できる日本画紙は画期的で、日本画壇に革命を起こし、横山大観氏や平山郁夫氏などの大家にも愛されてきた。大きなものでは212㎝×273㎝、それだけの大紙を漉けるのは越前和紙の数ある製紙所でも数社のみ。
「漉くにも二人一組、大紙なら四人もしくは六人一組。だからこそ息合わせが大事です。それは、和紙作りの全工程で同じことが言えます」。麻貴子さん自身、気持ちが紙に現れると『自分を持ちながら、常に穏やかでいること』を心掛ける。その姿勢も先代から学んだ。
そして今、経営者として岩野平三郎製紙所のあるべき姿を考え、職人として作家にどれだけリピートして頂けるかに心を砕く。常に作家の希望に寄り添い、皆で紙を漉く。作家の数だけ紙の種類は増え、30を超えた。「日本画用紙を突き詰める」。それが、岩野平三郎製紙所の信念であり歴史である。
「海外では絵画はキャンバス(布)が中心ですが、今後は、日本文化である和紙をアート紙として海外にも広めたいですね」と麻貴子さんは語る。岩野平三郎に脈々と受け継がれる信念で「雲肌麻紙」が世界のアート紙になる日を目指す。
文:友廣 みどり
Text / Midori Tomohiro