刀剣から始まる越前打刃物の物語
越前市に長らく伝わる伝統工芸技術の中で、包丁や鎌などに代表される「越前打刃物」は700年以上の歴史を誇り、現在も打刃物職人が日々鍛錬を続けている。
刃物を作るための工程は、大きく分けて14ある。鋼と鉄の塊を鍛造して強くし、形作り、火を入れ、また打ち、火を入れ、冷やし、また打つ。そして、最後に刃を研ぎ仕上げる。工程の一部は機械化されたとはいえ、基本的な作り方は700年前から変わっていない。
中でも、越前打刃物の工程にはユニークな特徴が二つある。包丁の「二枚広げ」と鎌や刈り込み鋏の「回し鋼着け」である。
「二枚広げ」は、刃を二枚重ねて裏と表から槌で打ち、二枚同時に薄く延びるよう手早く作業する工程だ。二枚重ねることで厚みが倍になり、槌によって圧縮されることで強度が増し、板むらが少なくなり質の高い刃物に仕上がる。
「回し鋼着け」は、地鉄と鋼を鍛接した後、刃先の片隅から全体を菱形につぶしていく方法で「柾置法(まさおきほう)」と呼ばれている。一般的な「平置法」に比べて、薄く研ぎやすく丈夫な鎌の刃を作ることができるのだ。
刀匠千代鶴国安、越前へ
この越前打刃物は、鎌倉から室町へと変わる動乱の南北朝時代、一人の刀匠が越前の地に入ったことから物語が始まる。
時は1337年(延元2年)、京都で刀匠として名を馳せた「千代鶴国安」が、刃物製作に適した土地を求めていた。峠を超えたところ、刃物の製作には欠かせない清らかな水と豊富な鉄の産地であった越前国に入り、この地を気に入って府中に工房を構える。ある日、国安は刀剣製作の傍らで「鎌」の製作に当たっていた。ふと池に映った三日月が鎌の形に重なり、これが「越前鎌」の始まりとされている。
通常、刀匠が鎌を製作することは珍しく、国安にそういった言い伝えが残されていることは、府中のまちの中に彼がよく溶け込んでいた証拠なのかもしれない。
こうして刃物を作るために必要な素材、「水」「鉄」「燃料」これらが三つ揃った越前は、国安という刀匠が訪れたことにより全国的にも秀でた産地となり、現在では世界的にもその技術を認められるまでになっているのだ。
タケフナイフビレッジで、60年以上にわたり越前打刃物の製作に携わる、伝統工芸士の加茂勝康さんは、越前の環境についてこう語る。
「これだけ水が清らかで、良質な鉄が採れることを考えれば、納得はいきますよ。鍛錬のための燃料の松炭も取れるし。刀を作るには一人ではできんから、きっと国安さんはお弟子さんや仲間を引き連れて越前に入ったんじゃないかなぁ。鎌を作ったのも、まちの人と仲良くしてたからやろうね」
平和への祈りを込めた狛犬
「刀」と聞けば、人は戦を想像するだろう。
しかし、千代鶴国安は、その名の通り、誰よりも国の安寧、平和を願う刀匠であった。
京町の「千代鶴神社」境内にある「千代鶴池」には、国安が刀を一振り製作する度に砥石を削って狛犬を作り、願いを込めてこの池に沈めていたという言い伝えがある。国安は刀匠でありながら「刀は人を殺すためのものにあらず、武士の象徴となるべきもの」という信念の下で製作にあたっていたという。
実際に神社の池からは石彫りの狛犬が多数見つかっており、その表情に険しさはなく、どこか愛嬌のある顔をしたものばかりだ。
当時、国安の刀剣は武士に人気があり、朝倉家の真柄直隆・隆基親子によって使われた太郎太刀と次郎太刀が有名だ。太郎と次郎という名は、当時の武士が刀を二振り持つ場合、長い方を「太郎」、短い方を「次郎」と呼んでいたことからきている。
太郎太刀の長さは約2mを越すほどの大振りなもので、複数人で運ぶほどの大きさの刀でありながら、真柄直隆は一人で軽々と装備していたと『明智軍記』に残されている。
神社の中に立つと、「戦のための刀剣はこれで最後」という思いで作り続け、狛犬を納めた国安の背中を感じられるようだ。刃物を打ち続ける加茂さんも、生産者として国安に深く共感するという。
「国安さんが狛犬に願いを込めて池に沈めていたという話は、僕ら職人もよく聞かされました。きっととても優しい人格者やったんやろね。刀は戦いに使うものやけど、一度抜いたら最後、人を切らなければならない凶器になる。そういう世の中になってはいけないという気持ちが人一倍強かったんかもしれんね」
土地のお守りとしての御神体、そして、生きるための刃物に
戦国時代が過ぎ、武士の時代が終わり、国安の刀剣は「運命を切り開く縁起物」「土地を守るためのお守り」としても重宝され、その姿そのものが御神体となった。現在は、熱田神宮に大太刀が祀られ、1932年(昭和7年)には千代鶴神社にも奉納された。
また、国安が始めた越前鎌は、江戸後期に漆掻き職人によって全国へと広まり、越前打刃物の名を世に轟かせていった。
そして今、越前の包丁は世界的にも評価され、打刃物職人たちはフランスなど遠く海を越えて各国を飛び回っている。
時代のニーズに合わせて、力強く柔軟に姿を変えてきた越前の「刃物」は、職人一人ひとりの祈りと思いが込められ、一つ一つ丁寧に鍛錬されたものだ。武士が刀を振って心身を鍛錬したそれと同じではあったが、守るものも変化を遂げた。
改めて、国安が池に沈めていた狛犬のことを思い出してみる。狛犬は、口を開けたもの(“阿形”あぎょう)と閉じたもの(“吽形”うんぎょう)の「阿吽(あうん)」で一対となっており、「人生の初めから終わりまで」という意味があるそうだ。
止むことのない戦を思い、越前のまちで生涯を送る人を思い、一振り一振りに平和への祈りを込めて刀を製作していた千代鶴国安。彼をルーツとする越前打刃物に触れることで、今、私たちの置かれた世界に想いを馳せてみてほしい。
文:佐藤実紀代
Text / Mikiyo Sato
(あらすじ)
5千代鶴国安 ⇒ 千代鶴の池・狛犬 ⇒ 千代鶴神社 ⇒ 真柄十郎左衛門“太郎太刀・ 次郎太刀 越前打刃物の祖とされる千代鶴国安は、南北朝の動乱の前後に刃物製作に適した土地を 求めて京から府中(現越前市)に移住してきたといわれる刀匠です。
国安は、越前府中で刀剣製作の傍ら千代鶴池に映った三日月を参考に製作した鎌が、越 前鎌のはじまりと伝えられています。また、国安は千代鶴池に砥石で削った狛犬に願いを込めて沈めたという言い伝えも残されています。
昭和7年には、千代鶴池の畔に、国安の功を永遠に伝えるため、初代千代鶴国安の作と 伝えられる刀を御神体として奉納され千代鶴神社が建立されました。
また、熱田神宮に伝えられる大太刀は、現在残る国安作と伝えられる刀として有名です。