東西南北、「要所」としての府中
継体大王が治めていた越前国の時代から、西の都より流入する人々や物資を受け入れ続けてきた府中。以来、その往来のために街道が整備され、さらに街道に沿って寺院や商店が建ち並ぶことによって、まちが形成されていった。
旧武生市街が南北に長いのは、江戸時代に盛んに往来が行われた「北陸道」(北国街道とも呼ばれた)が元になっているからだ。現在もこのエリアは、越前市役所をはじめ、行政関連機関や商店街が集まる越前市の中心部としてその機能を果たしている。
南北に伸びる街道はすでに室町時代には造られていたと考えられているが、この他にも、南西に位置する広瀬から中山峠を越えて河野浦をつなぐ「馬借街道」や、粟田部から一乗谷を結ぶ「朝倉街道」も重要なラインとして流通を支えてきた。
物資はもちろん、朝倉家をはじめ秀吉や信長、福井藩の殿様たちも往来したかもしれない主要な街道がこの府中に集まっていることを考えても、越前国の中で四方八方から要所として押さえられたエリアだったということがわかる。
街を守り、街に愛された府中城と本多家
現在の越前市役所の場所に府中城の主郭があり、そこを中心に城下町が広がっていた。発掘調査によって、府中城の史跡と思われる「野面積み」と呼ばれる手法で積まれた石垣が広範囲に見つかっており、現在は武生公会堂にてその一部を見ることができる。
もともと、朝倉氏の「府中奉行所」が置かれていた地域であり、1570年(元亀元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡した後は、前田利家が府中城を築いて1575年(天正3年)に入城した。前田利家はこの後、加賀藩にて加賀百万石の礎を築くこととなるが、府中にも両親の菩提寺を設けるなど、府中との縁を切らずに残していた。さらに時代が移り、1601年(慶長6年)に結城秀康が越前に入国すると、その老中である本多富正が府中城に入城し、以来明治維新まで越前のまちの治世に務めた。彼が府中のまちに残した功績は非常に多い。
例えば、日野川の治水工事や、北陸道沿いに町用水を改修するなどインフラの整備を実施。また、打刃物や織物の産業奨励を行なったことにより職人が府中に集まり、その結果、多様な技術を複合的に使った越前指物が生まれる礎を築くことにも貢献している。さらに、京都から蕎麦職人である金子権左衛門を招き、非常食としての蕎麦の栽培や大根おろしとの組み合わせを奨励したことが、「福井のおろしそば」の発端となったと言われている。本多富正のこうした貢献は町民の信頼を集め、明治維新の折、本多家が貴族として認められなかった際には、人々が反乱を起こすほどの騒ぎとなり、いかに愛される存在だったかがうかがい知れるのである。
歩いて想いを馳せるかつてのまち並み
府中城に向かって南西にあるエリアには古い寺院群が軒を連ねており、その間に、料亭や街道を忍ばせる袖宇建(そでうだつ)の町屋が今でもところどころに残っている。大阪から移住した越前市観光協会の宮地広樹さんは、府中城と城下町の魅力は歩いてみるとよくわかると話す。
「僕は歴史を感じるために、必ず歩いて街を散策して地図を照らし合わせてみるんですよ。空襲を受けていないからとは言え、京都とは異なる城下町を思わせる建物が多く、寺院も大きなものばかり。時代を考えても、きっと寺院も要塞として使われるためのもので、いつ攻め込まれるかわからない戦いに備えていたことがうかがえると思います」
あくまで趣味の一環ですから、と前置きした上で、歴史好きの宮地さんはこう語る。
「南西に要塞の寺院と日本海、そして東に大きな日野川。これは攻め込まれた場合に、敵を追い詰める流れを想定していると個人的に推測しています。全国的に見ても海外との要となる敦賀港があり、北陸道の北は福井藩という幕府と強力なつながりのある味方がいますから、攻め込まれる確率の高い南側を向いて守っていたんじゃないかな」
国の要所となるということは、少なからず敵国からも狙われる運命にある。しかし、その中でも工夫を凝らし、まちの人々と団結して守っていくことができた地域だからこそ、府中の地は長い時間、生き残ってきたのだろう。一度は実際にまちを歩き、かつて人々が行き交った街道の往来を想像しながら、この地に積み重ねられた1500年の時の片鱗を風とともに感じてほしい。
文:佐藤実紀代
Text / Mikiyo Sato